こんばんは、らくだです。
今日は少しコムズカシイ話になってしまいますが、前から書いておきたかったことを書きます。
テーマは、人のコミュニケーションについて。
というのも、言葉はコミュニケーションの「表面(にすぎない)」と思う、ということです。
言葉は、言語として他人同士で意味が共有されており、客観的な事実となります。記録や正しく伝達することも可能です。ゆえに、情報としてとてもわかりやすく、それを聞いた相手は、飛びついてしまいがちです。「だって、あの人はこう言った」なんて、自分の感情の根拠にしたりもします。
ですが、果たしてそうなんでしょうか。
言葉(=バーバルコミュニケーション…言語を介したコミュニケーション)、はすべてのコミュニケーションのうちの2割と言われています。いわば、言葉は時として氷山の一角つまり、コミュニケーション上の表面に過ぎず、表面上見えない真意のほうがはるかに大きい割合を占めているわけです。
もちろん、本当に表面的な人もいます…なので、その言葉や見た目(表面)がその人のすべてなのかそうでないのかを判断する力は、世渡り力として必要ではあります。
しかし、言葉がコミュニケーションの表面であるなら、その表面だけで判断して踊る(踊らされる)べきなのでしょうか。加えて、人の思いというのはもどかしく、そうそう簡単に言語化なんてできないという理解(思いやり)を踏まえて、そこに見えた言葉の真意、つまりその言葉が紡ぎだされた心情、背景に、受け手として可能な限り思いをはせることが、本来的なコミュニケーションの要点なのではないかと考えるわけです。
例えば、対人援助職の場合などの職業では、相手の言葉や行動が、不十分、不正確あるいは過剰な状況からでも、対象者の心情をできるだけ正しく把握できる能力と、そう努める姿勢が必須技能であると思いますが、それはごくごく特殊なことで、普通一般の人がそこまでしないし、必要でもないし、要求もされませんから、そういう意識は結構乏しいんじゃないのかなと思うんです。
「いやいや、そんなことは当たり前だ、常識やで」というご意見があったらごめんなさい。らくだが不見識なだけで、赤っ恥もいいとこなんですが、まぁそんなことはないと思うんですね。売り言葉に買い言葉というか、身近なところから国際問題まで、そう言う話に満ちていると感じています。
らくだは、人のすべての行動は、せざるを得ないからそうしている、いわば必然による、と考えます。すべての人の行動は、その人の(見えない)内的な要因と連動している=その人のその時の状態を表す、立ち居振る舞いにはすべて理由がある…欺いているなら、欺かなくてはならない何かの理由がある、と考えれば、目の前の相手が「ようわからん」場合にも、少しくらいは歩み寄れるような気がするんです。
私らくだの理想は、常に、相手の真意を推し量ることができることです。・・・見かけの内側にある真意に届くことのできる人でありたい、と思うのですが、まだまだ道半ば。実際まだまだ未熟な自分を感じる日々です。
現実は未熟でも理想は高く。少しずつ前に歩いていきましょうか。
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まだまだ未熟なアマチュア占い師ですがよろしければお声掛けください。
彷徨えるブログではありますが、どなたかのお目に届いていれば幸いです。
今日もご拝読ありがとうございました。
らくだ屋 拝
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